【トレイい話】津波に耐えた機関車

東日本大震災から5年が経ちました。

日本史上、最大・最悪とも言える災害は、鉄道にも多くの爪痕を残しました。

おそらくみなさんが記憶されているいろいろなエピソードがあると思います。

そんな中、私がこの目で見て、記憶に残っているエピソードをお話します。

 

それは『津波から運転士を守った機関車』のお話です。

 

ED75電気機関車は国鉄が製造した交流用電気機関車です。

1963年に東北・常磐地区が電化されるのに伴い、を中心に、かつては日本全国の交流区間で活躍をしました。

そのラストナンバーである1039号機は国鉄からJR東日本へと引き継がれ、その後JR貨物に売却されました。

 

時は流れて2010年6月頃、次第にED75が淘汰されていく中、1039号機も休車扱いとなりました。

 

放置されたまま数ヵ月が過ぎました。

時間が経てば経つほど、復帰の望みは薄くなります。

 

ところが、そのまま廃車になってもおかしくない状況の中、2011年3月2日、奇跡が起こりました。

 

検査を受けピカピカとなった1039号機が運用に復帰したのです。

もう二度と本線上に現れることはないと半ばあきらめていた1039号機の復帰に、多くのマニアが狂喜乱舞しました。

 

そのニュースは鉄道ファンの間で瞬く間に広がり、多くの撮り鉄が常磐線に向かいました。

当時、私もツイッターや各種の鉄道系サイトや掲示板で、その動向を見守っていました。

次々とインターネット上に配信されるピカピカの1039号機の写真や動画を見て興奮しました。

もう少し暖かくなったら絶対に1039号機が牽く貨物列車を撮りに行こうと計画していました。

 

しかし、それは永久に叶わなくなりました。

 

2011年3月11日14時46分。

 

東日本大震災が起きました。

常磐線で貨物列車を牽いて走っていた1039号機は津波の被害に遭ったのです。

 

この時の事故の模様は国土交通省のHPにある運輸安全委員会の鉄道事故調査報告書を読むと詳細がわかります。

http://www.mlit.go.jp/jtsb/railway/rep-acci/RA2012-7-1.pdf

以下報告書から事故の概要を抜粋します。

 

「日本貨物鉄道株式会社の札幌貨物ターミナル駅発隅田川駅行き21両編成の上り高速貨第92列車は、平成23年3月11日、浜吉田駅を定刻(14時06分)の約40分遅れで通過し、速度約80㎞/h で力行運転中、列車防護無線を受信したため、運転士が非常ブレーキを使用して列車を停止させた。

運転士は、非常ブレーキを使用してから列車が停止するまでの間に大きな揺れを感じ、停止直前に地震が発生した旨を伝える無線を受信した。

停止から20〜25分後に津波が列車に到達し、その後、列車を確認したところ機関車を除く貨車20両が右へ脱線し押し流されていた。

列車には運転士1名が乗務していたが、負傷はしなかった。」

 

また、「運行の経過」という項目の中には津波を受けた時のことが詳細に書かれています。

 

「その後、津波がやってきたのは、列車停止後20〜25分経過してからであった。津波の高さは機関車の高さの半分くらいで、運転室内は水が足下を少し流れる程度に浸水した。車外では、機関車の目の前を家屋や自動車が流れていた。」

 

列車は牽引していた1039号機を除き、すべて津波に流されてしまったようです。

 

1039号機は約70t近い重量があることが幸いしたのかもしれません。

また、津波がきたのは運転士が機関車から降りている時でなかったのも運が良かったのでしょう。

 

日本貨物鉄道労働組合のHPの『JR貨物労組対策本部情報 第9号』には、機関士の生々しい証言も掲載されています。

http://www.jrfu.net/publics/download/?file=/files/content_type/type019/173/201410031312462471.pdf

 

「3月11日14時46分、常磐線、浜吉田〜山下間で防護無線を受信し停車したところ、突然に大きなゆれが襲ってきた。地震と感じ輸送指令に携帯電話で連絡したが通じなかった。その時左横の海側より大きなうねりの津波が襲ってきた。機関車も大きく揺れ、必死につかまり、何とか津波をやり過ごしたが、目の前で民家や車が流されていくのを見て、この世のものと信じられなかった。そして助手席から後方をみると貨車とコンテナが30m以上も先に見え恐ろしくなった。これは大変なことになったと思ったが、荷物を守らなければとの思いもあり、不安ながら機関車でじぃーと待つしか手は無かった。しかしその後何回も大きなゆれが起こり、また近くの防災警報で更に大きい10m級の波がくるとの放送を聞き、危ないと思い脱出しなければと決意した。少し海水が引いたところを見計らい、首まで冷たい冬の泥だらけの海水につかり、何とか民家にたどり着いた。民家も1階のガラスが破れ、家具が散乱し、泥水が入り込んでいた。そして今後どうなるのか不安がいっぱいの中、寒さに耐え2階で津波の動静を見守っていた。そして夜の11時頃携帯電話が鳴り、出ると何と当直からかかっているではないか。何とか脱出したことを伝えると少し安堵したが、緊張と不安と寒さで一睡もせず、朝を待つことになった。だんだん夜があけてくると、だいぶ海水が引けているのが見えたので、その民家を脱出し、人がいるところへ行って伝えた。その時、まさに生死の境目を繰りぬけたことを実感した。」

 

こうして1039号機のおかげで運転士の命は救われました。

悔やまれるのは40分遅れの運行であったことです。

もし、定時通過をしていたら……。

津波を逃れていた可能性が高いため、悔やまれるところです。

 

その後、「1039号機が津波の後もそのまま残されている」という話を聞き、私は現地に向かってみました。

 

震災から約4ヵ月。

 

被災現場の浜吉田〜山下間は雑草で覆われ、津波がきたことなど嘘のように静まり返っていました。

ところどころにある民家に人の気配はなく、ゴーストタウンのようになっていました。

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1039号機は雑草の生い茂る荒地に鎮座していました。

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私は車を停めて、1039号機の近くまで行ってみました。

1039号機は静かに佇み、脱線すらしていませんでしたが、1039号機のある場所以外の線路は、すべて津波で流されてしまったようでした。

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台車に挟まった瓦礫は津波のはげしさを物語っていました。

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また、時間は経っていましたが、津波の痕跡が運転台の窓の下にも残っていました。

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細かいところをチェックして30分近く経った頃、「ご苦労様です!」と、突然背後から声をかけられました。

振り返ると二人の警察官が立っていました。

「この機関車を見に来られたのですか?」

片方の警察官に聞かれたので、私は事情を話しました。

 

1039号機がここに残されていると聞いて東京から車で来たこと。

1039号機が人気の機関車であったこと。

1039号機が永い眠りから目覚めたばかりであったこと。

運転士は助かったこと。

海水に浸かったため、復帰は不可能なこと。

 

奈良県警と千葉県警から応援に来ているという二人は熱心に話を聞いてくれました。

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「我々も機関車がここに残されていると聞いて見に来たんです。せっかく復帰したのにこんなことになってしまったんですね……」と残念そうに片方の警察官が言いました。

すると、もう一人の警察官は「でも運転士さんが助かったのは不幸中の幸いです。もしかしたらこの機関車はそのために神様が蘇らせたのかもしれませんね」と言いました。

 

私もその通りだと思いました。

 

「ご苦労様です。気をつけてお帰りください」

 

二人の警察官は私に敬礼をすると、さらに機関車にも敬礼して帰って行きました。

私は1039号機が大震災の記憶を未来に伝えるモニュメントとして、この場に永久に保存されることを期待してその日は帰りました。

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しかし、多くのファンの願いもむなしく、2011年の11月頃、1039号機は現地で解体されてしまったそうです。

しかし、1039号機の勇姿は、多くのファンの記憶に残っていることでしょう。

[当時の映像]

 

執筆者:神田勲
《ぷぅやん》当サイトの管理人。撮り鉄一筋のキャリアは40年以上。2008年より中国に渡り、現役の蒸気機関車を追い続ける。その活動をYouTubeに投稿し続け、チャンネル登録者は約9000人を超えた(2016年5月現在)。その派生形として、当サイトを立ち上げた。

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