【昭和の風景】しらさぎ号の記憶

みなさんこんにちは。

私はフリーカメラマンの堀田春樹と申します。

キックボクシングや格闘技の撮影をライフワークとしておりますが、私がカメラマンになったのは、父が写真屋だった影響が大きかったと思います。

私の父は終戦後、戦地から引き上げて始めた街の写真屋でした。
お客様から頼まれて、記念写真や集合写真を撮ることで生計を立てておりました。

「堀田の写真屋のおっちゃん」と呼ばれ、街のみなさまからも親しまれておりました。
そんな父も2010年に亡くなりましたが、父の遺品を整理していた時、私の子どもの頃の大切な思い出がよみがえる写真が出てきたのです。

父は写真の配達や撮影のために、頻繁にバイクで出かけていましたが、カメラのフィルムが余っていれば、小学校の通学中の子供を撮ってあげたり、風景を撮ったりしていました。
それらの写真は紙焼きとしてたくさん残されていたのです。

その中に私の大好きだった電車の写真がありました。
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それは北陸鉄道河南線・大聖寺から山中まで走っていた『しらさぎ号』でこの路線は1971年(昭和46年)7月に廃止されました。
もうひとつ『くたに号』という同様の形をした赤いデザインの電車もありました。
私の家族は当時、山中温泉に住んでおり、近くを通っていたのが、今は廃止されてしまった北陸鉄道の河南線でした。
この河南線は山中(温泉)から大聖寺まで、およそ9kmの短い距離でしたが、子どもの頃は、大聖寺まで出るのも大きな冒険のようでした。線路沿いに私の通っていた木造の小学校があり、1年と2年生の時は線路側に教室があり、席が窓側になった時は電車ばかり眺めていました。

当時は『しらさぎ号』と『くたに号』が河南線の看板で、その他にもボロ電車がありましたが、私はボロ電車が走るとガッカリし、『しらさぎ号』か『くたに号』が走ると喜んでいました。
しかし、『しらさぎ号』や『くたに号』に乗りたいのに家が忙しく、乗る機会は少なく、眺める日々が続くばかりでした。
たまに親に連れられ、金沢や福井に遊びに行った際は、行きは河南線に乗って大聖寺に出て北陸線に乗り、帰りは大聖寺に着くと、タクシー乗り場に引っ張られ、電車には乗せてくれませんでした。時には行き帰りともタクシーだったこともあります。「電車に乗りたい」と言っても「タクシーの方が速い」の一喝で幼い頃は黙って我慢でした。

昭和40年代の前半のお話ですが、その頃の日本は高度経済成長に勢いづいた頃で、「タクシーに乗る方が、グレード高い家庭」というような意識を、みんなが持ち始めた頃だったからかもしれません。

ところがそんな時期はわずかなもので、どこの家も自家用車になっていきました。
私の家は兄貴もまだ中学生で、父親はバイク(当時はスクーター)のみ。女が免許を持つのも少ない頃で、その頃の母親は持っていませんでした。

車が普及していく中で、昭和45年の春頃、河南線電車の廃止論が出てきました。反対論でやっと1年ほど延びたものの、昭和46年7月10日で廃止されました。
最後まであまり乗る機会には恵まれず、最後に乗ったのはその年の5月下旬、『しらさぎ号』に乗ったのが私の最後の河南線乗車となりました。最後に乗った『しらさぎ号』は、母親と大聖寺に遠出をして買い物してきただけの短いものでしたが、子どもの頃としては楽しい外出でした。
やがて廃止されることがわかっていながら、それが最後になるとは思っていませんでした。
まだ5月の終わり頃でしたが、もう1回ぐらいは乗ると思っていましたが、それが最後となってしまいました。

その日は行き帰りとも一番前に乗って、運転席と逆側の、進行方向に向かって右側の横長の席の一番前、前方がいちばん見やすい位置に陣取りました。
廃止後は『しらさぎ号』が静岡県の大井川鐵道に譲渡されることが決まっていました。
大井川鐵道には父親が「今度いつか連れてってやる」と口癖のように言っていましたが、暇な日が少ない仕事で、電車に逢う以外、何も用のない大井川へ行くことはありませんでした。

私が上京したのは昭和56年で、写真学校に通いつつ、電車と同様に子供の頃から格闘技に興味を持った影響で格闘技撮影に夢中になり、時間はあるのにそのまま一度も大井川鐵道に行ったことはなく、『くたに号』『しらさぎ号』のことは記憶から遠く忘れかけていました。
『しらさぎ号』の思い出は、そんな大袈裟なものではありませんが、私にとって大切な子どもの頃の思い出の一つでした。

大井川鐡道で役目を終えた『しらさぎ号』は2003年に老朽化により引退し、大井川鐵道の車両区の一角に放置されていました。しかし2004年頃、山中温泉に返還される話が持ち上がりました。当時の山中町町長がそんな意向を持っていたと後に聞かされました。

兄貴から「34年ぶりに地元で公開されている」という話に、二度と乗れないと思っていた電車が帰って来ていることに、私は懐かしさでいっぱいになりました。2005年の暮れに実家に行った時、兄貴と車で早速連れていってもらいました。ここもかつて通った木造の古い中学校の跡地で、「道の駅」の敷地となっている場所でした。
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夜だったので、暗闇に佇んでいましたが、懐かしく、車体を34年ぶりに触り、感動しました。
しかし、ドアーに鍵が掛かっていたので、その翌日、母親と車でもう一回見に行って、親子で乗った『しらさぎ号』と、親子での再会でした。母親は電車に興味ない人で、「もう行くぞ」と促されましたが、その後は一人で行って好きなだけ見ています。
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今は実家に帰る度、『しらさぎ号』に逢いに行っています。

物心付いた頃から『しらさぎ号』は存在し、電車の運転手になりたかった子どもの頃の夢でしたが、特別他に、変わったできごとがあった訳ではありません。
しかし、この電車を幼い頃から見ているだけに、脳裏に焼き付いて幼なじみの友達のような感じなのです。
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よく乗った一番前の席に座ったり、入れなかった運転席に座ったり、子どもの頃は背が小さくて手が届かなかった、つり革に掴まったり、車体に触り、中に乗り、それほど熱狂的な鉄道ファンでもない私が、この電車だけには魂があるように、心が通っているかのように話しかけています。

昔よりも今の方が、『しらさぎ号』と対話をしている時間が長いかもしれません。
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(当時の写真/堀田写真店・堀田芳春 文/堀田春樹)

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