【われら TETSU family】 file.5 高橋団吉(前編)

「島秀雄」を世に広めた男
『新幹線をつくった男』著者
独占インタビュー(前編)

info

1955年千葉県生まれ。早稲田大学文学部卒業。
「株式会社デコ」代表取締役。
【主な著書】
『新幹線をつくった男 島秀雄物語』
『島秀雄の世界旅行1936-1937』
『新幹線を走らせた男 国鉄総裁 十河信二物語』他

*********************************************************
鉄道史上に名を残すエンジニア「島秀雄」をプロデュースしたのが「十河信二」ならば、世に広めたのは間違いなく「高橋団吉」だろう──。
鉄道好きではないと語る高橋氏が「島秀雄」そして「十河信二」についての著書を書いたのはなぜなのか。そして著者が取材の中から感じた彼らの姿をうかがってきました。
*********************************************************

――高橋さんは特に鉄道好きというわけではないんですよね。

そうなんですね。「鉄」じゃないんです。私は父方が北海道、母方が大阪の出で、本家の親戚の元へ帰る時はいつも鉄道を利用してたんです。東海道線は当時の花形特急「つばめ」、常磐・東北線は「つがる」「八甲田」などで何度も往復していました。昭和34年秋の伊勢湾台風の時は、ちょうど家族で大阪に向かう途中で、愛知県内の盛り土区間で「つばめ」が立ち往生しちゃった。一面、ものすごい濁流の中に取り残されて、先頭の蒸気機関車がむなしく煙をあげている。あれ、C62だったんでしょうね……。
小学校は千葉市でしたけれど、臨海学校や林間学校に行くのもバスではなく全て鉄道なんです。鋸山のトンネルをC58牽引の貸し切り列車で全員顔を真っ黒にして通り抜けたりとか、とにかく、鉄道がものすごい身近にあったんですよ。

昭和30年生まれですから、マイカーはまだまだ世の中に広まってなかったんですね。「日本航空」も空を飛んでましたけれども、庶民が乗るものでは全くなかったですしね。
小学校の近くに機関区があったんです。西千葉機関区って言ったかな。だから、もう手を伸ばせば触れられるようなところに、蒸気機関車のD51(デゴイチ)やC57(シゴシチ)なんていう本物の機関車があったんだよね。そこがもう、今の子供たちとは全然違う。

当時は、地元の本屋さんが自転車の荷台に「小学3年生」や「少年マガジン」などの雑誌を届けてくれてたんですよ。その中身の記事は、鉄道がかなり占めていたんです。だから、ある程度は知っているんですよ。すごく好きとかではなくて……。当時から鉄道模型をやっている子もいましたけれどね。今に比べればはるかに鉄道が身近だったから、「ハマる」という感覚ではなかったんです。「鉄」だったことは、一度もないんですよ。

t_02

■「C57 161」(昭和40年 総武線・千葉駅にて)
当時10歳の高橋氏がカメラを借りて、たった一度だけ蒸気機関車を撮りに行った。

昭和40年頃かな、親戚に国鉄に勤めている人がいて、一緒に案内してくれと頼んで蒸気機関車を見に行ったんですよ。10歳の時です。ちょうど、東海道新幹線が開業して、一年が経ったころ。千葉の小学生にとって、新幹線は遠い、遠い存在で、目の前を走る蒸気機関車のほうが、断然魅力的でした。

はじめて新幹線に乗ったのは、高校の修学旅行で京都に行った時。そのころは、鉄道にはほとんど何の関心もありません。鉄道よりも女性に興味がありました。はるかに(笑)。千葉の田舎の高校生が慶応女子高の彼女とデートするんです。二人で、季節外れの九十九里浜にデートをしに行ったりしてね。房総東線のツートンカラー(ブルーとアイボリー)の「スカ電(115系)」に揺られて、行きは愉しく話ながら、帰りはまったく無口になって、っていう……。

――そこをもう少し詳しくお願いします(笑)。

いやいや(笑)。

soubusen_t

昭和40年  総武線(千葉~両国)車内の高橋氏

 

「新幹線をつくった男」=島秀雄!?

 

――島秀雄さんについて書こうというきっかけは、何かあったのでしょうか。

新幹線開発について書いてくれと言われたんですよ。『ラピタ』という雑誌を創刊する時に、編集部で技術の物語を連載しようと考えたんですね。当初の企画は飛行機のYS11だったと聞いています。だけどうまくいかなくて、編集長が「新幹線ならできるか」と私に聞いてきて、「高橋さんなら技術のこと書けるんじゃないの」と言ったんです。
というのも、当時、レーシングチームを運営してたんですよ。神保町にいくつかガレージを持っていて、エンジニアを集めてソーラーカーをつくっていたの。やっぱり、自動車が好きだったのかな(笑)。世界チャンピオンにもなったんです(1995年、FIAエレクトロ・ソーラー部門)。それがきっかけで編集部からお声がかかったんだと思います。「新幹線開発の技術の物語が書けないか」と。僕は技術はだめです、だけど誰か人間を特定できるんだったら書けるかもしれないと答えたんです。
ちょっと資料等を調べてみたら、何人かでてきたけれども、どうも島秀雄という男が中心だったのではないかと思える。そこで、国鉄OBの関係者に会って、確かめてみたんです。けっこう曖昧なお答えもあったんですが、最後はご子息の島隆さんにご面会して、「島秀雄が中心といえるなら、連載をはじめたい。いかがでしょうか?」と聞きました。島秀雄さんご本人はご病気で会えなかったんです。隆さんから「公平に言って、島秀雄を中心に開発された……と言っていいと思います」というお答えをいただいて、「じゃあ、やらせてください」と連載を始めたんですよ。

――取材を始めた当初はご存命でいらしたんですね。

はい。だけど連載3回目の時に島秀雄さんは亡くなってしまって、結局は会えませんでした。「お葬式」が、粉雪舞う芝の増上寺でした。

――著書「新幹線をつくった男」の最後に島秀雄さんの遺書を載せられていますよね。それには、そういういきさつも関係があったのでしょうか。

あれはね、直接は関係ありません。新幹線の開業後に、名古屋付近で車軸折損事故というものが起こって、島秀雄が心筋梗塞で倒れる。あってはならないことですからね、病床で「遺言」をしたためた。それを、連載終了のころに見せていただいたんです。
あの連載は、最初のころは「技術の物語」が骨なんです。台車の構造とか、揺れ枕吊り……とか。でも、だんだん、人の物語になっていっちゃう。戦争に向かって行くあたりからは、技術のディテールより、人間と時代の物語になっていくんです。

――後半の方が読みやすかったです(笑)。

そうでしょ。とくに女性は、前半はダメなんですよ(笑)。
連載していたころは、まだまだ当時の国鉄を知るOBの方がかなりたくさんいらっしゃったので、その人たちから連載中に情報がどんどん寄せられました。でも、どこかのタイミングでもう連載は終了にしよう……という話になったんです。だから、東海道新幹線開発に関しては、あんまり詳しく書いてない。あのまま技術も書いて、人も書いていたら、もっと分厚い、1000ページくらいの本になっていたでしょうね(笑)。
hon_t01 

――島さんが「新幹線をつくった男」としてメディアに名前がさかんに出るようになったのは、この本の影響が大きいと思いますが。

本の力って、ありますよね。あのタイトルは小学館の編集者さんがつけたんですが、今から思うと、すっごい。力がある。今じゃ、1から10まで島秀雄さんがつくったんだ……っていうことになっちゃったみたい。開業40周年の時も、開業50周年の時も、テレビドラマの主人公は島秀雄です……。

――「妻たちの新幹線」(NHK、2014年)ですね。拝見しました。

でもね、たしかに技術の中心は島秀雄技師長だけど、新幹線をつくった中心人物は島さんじゃない……っておっしゃる方々も、取材をはじめた当初から、たくさんいらっしゃったんです。

――本の中でもそうですけど、ドラマを観ていたら、十河さんの存在がすごく大きいなと感じましたが、やはりこのタイトルのインパクトが強いからですね。

十河信二という国鉄総裁がいなければ、新幹線は、絶対に出来ていません。このことだけは、まちがいない。なによりも島秀雄自身が、そのことをよく知っていました。
「鉄っちゃん」たちは、技術の話が好きですしね。「鉄」たちに限らず、多くの現代人にとって、技術のドラマっていうのは、なんていいますか、受け入れやすいんじゃないかと思うんです。感情とか、喜怒哀楽とか、恨みとか愛憎とか、打算とか根回し取引きとか……といういわば人間社会のドロドロした部分とは、一応は無縁なんです。安心して、読める。観られる。

 

戦前と戦後はダイレクトにつながっているんだ!

 

――取材されて島秀雄とはどういう方でしたか。

生粋の、純粋なる技術者ですよね。「合理」そのもの。「感情」に左右されない。技術者の鏡。
僕が驚いたのは、そういうきわめて「近代合理主義」の塊のような技術者が戦前から活躍していたんだ……ということなんです。轟音をあげて驀進する黒い巨体のデゴイチ。颯爽と走る新幹線。これをまとめ上げた男が、なんと同一人物であったということです。本当にびっくりしました。

われわれ昭和30年生まれの世代は、戦後社会というのは戦前と断絶してスタートしていると教えられているんですね。戦後の民主主義社会というのは、アメリカと手を組んで、敗戦後にリセットされている。考えてみればそんなことはあり得ないんですけど……。でも、事実、あの真っ黒の大型重量蒸気機関車と夢の超特急列車が、島秀雄という同一男によってつくられている。戦前と戦後はダイレクトにつながっているんだぞ、物事をちゃんとそうやって見ろよ、と明快に教えてくれましたね。

十河信二にいたっては、戦前どころか明治まで、つながっている。明治17年生まれ。帝大を卒業してまもなく日露戦争で、敗戦の時61歳、71歳で国鉄総裁就任ですからね。東海道新幹線のことは、明治まで遡らなけりゃワカランのだ! そう覚悟させられました。

 

島秀雄って、「ちょっとつまんねぇ奴だな」。

(後編につづく)⇒ 「島秀雄」を世に広めた男(後編)

 

 

 

このページの上へ