【われら TETSU family】 file.7 鳥塚亮(前編)

『夢を背負う人』
いすみ鉄道社長
独占インタビュー(前編)

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東京都出身。明治大学を卒業後、外資系の航空会社勤務を経て、
2009年、経営立て直し中のいすみ鉄道の社長公募に
123名の中から選ばれ、同年6月28日に同社の社長に就任。

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就任からわずか1年後にはいすみ鉄道の存続を決定させた鳥塚社長。「訓練費用自己負担運転士」や「ムーミン列車の運行」などの策や、キハ52、キハ28の導入など、その手腕は留まるところを知らない。そんな「鉄ちゃん」社長に鉄道業界の今までとこれからをうかがってきました。
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──小さいころから鉄道がお好きだったんでしょうか。

わたしは昭和35年生まれなんですが、4歳の時、昭和39年の東京オリンピックの時に新幹線が開業したんです。だから物心ついたら世の中は新幹線のことばっかりでした。
親戚が遊びに来る時は必ずブリキの新幹線のおもちゃをおみやげにもらってたんですよ。おもちゃの新幹線だけで3台も持ってました。プラレールもできてすぐで、それも新幹線を持ってました。それがまあ原点ですね。あとは自宅も沿線の近くだったのも影響しているかな。

──それは今もお持ちなんですか。

いやぁ、さすがにもうないですよ。あんまり勉強しないで電車のことばかりやってたんで、お袋に捨てられたんだったかな(笑)。
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──ご実家は東京ですよね。どんな子どもだったんですか。

当時は西武池袋線の路線の近くに住んでたんです。行き先札が、今はLEDとかですが、昔は鉄板だったんです。そこに駅名が書いてあるのが不思議だったんですよね。電車が走って来ると看板がついてて、「あれは何て書いてるの?」と、親に聞いてました。それを文字の形で覚えて、「あっ、飯能行きだ!」とか「所沢行きだ!」って言ってたんですよ。記憶にはないんですが、2歳くらいの時からそんなことを言ってるもんだから、周りの大人がびっくりしてたらしいです。

──そんなに小さな頃からなんですね(笑)。では、ご家族も鉄道好きだったんですか。

いえ、全然ですよ。まったく鉄道とは縁のない家系でした。私だけがどんどん好きになって、小学5年の頃から写真も撮り始めたんです。
ただその頃はフィルムだったから現像に出して、プリントすると1ヵ月のお小遣いが飛んでいくんですよ。だからフィルム1本を3ヵ月くらいかけて大事に大事に撮ってました。

──1枚の重みが全然違いますよね。

そうなんですよ。消してもう1回撮るなんてできないから、すごく考えて撮ってました。
今思えばもったいないことしたな、と思います。せっかく旅行してシャッターチャンスがたくさんあったのに撮ってないとか。例えば「SLを撮る」ってテーマを決めてたとするじゃないですか、そうするとディーゼル機関車が走っていても撮らなかったんです。今、SLは走っているけどディーゼル機関車は走ってないじゃないですか。
Facebookとかで『昭和の時間』で写真を掲載したりしてるんですが、あれは小学生から中学生の時のなんですよ。昭和46年、47年、48年と。時間がある時にネガをスキャンしながら、なんで撮ってないんだ! 本当にもったいないことしたなぁ、ってね。
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子どもの頃の思い、大人の自分

──その思いがいすみ鉄道でキハなどを走らせる計画の元になったんですか。

そうだねぇ。
蒸気機関車が惜しまれながら廃止になっていくというのを、私の父親なんかは「そんなもんどこがいいんだ。あんな煙はいて走って、昔は散々乗ったんだぞ」と。それを聞いて、なんで親父は理解しないんだろう、と思ってたんですよ。
それがね、ウチで今、キハ走っているじゃないですか。若い人たちは「いいですね」と言うけど、あんなのは全然すごくないんですよ。だって写真を撮りに行くための移動手段としてSLに乗ってたんだもん。「あんなの散々乗ったんだぞ」と、親父に言われたことと同じことを言っている自分がいる。
私なんかは八高線でD51が走っているのを知っているんですよ。室蘭本線でラストランしたD51が次の年になったら八高線で走っているのを見てすごいことだな、と思ったんです。だったら同じことを若い人たちのためにやってやるべきじゃないか! と思ったんです。
例えば大糸線で2010年にサヨナラランしたキハ52が次の年に千葉のいすみ鉄道で走っているとか。それは若い人にとってはすごいことなんじゃないかなと思うんですよ。自分が若かった時に感激したことを、今の人たちにも味わってもらいたいんです。
ラストランに行って涙流してね、もう会えないんだ……と名残惜しんでいたのが、翌年になったらそのままの形で千葉で走っている(笑)。

──それはすごくうれしいですね。

自分が大人になってね、まして鉄道会社をやってるんだったら、そのくらいのことをやらないと。
「鉄道が好き」と思ってきたのにはその思いを支えるモチベーションがあったと思うんですよ。振り返って、それは何かなぁと考えてみると「人」なんですよね。当時の国鉄職員が「出発進行!」と言っている姿だったり、はさみを両手に持って切符を切っている姿だったり、かっこ良かったなぁ。そういう人たちがいたから今の私たちがいる。だから鉄道会社を預かる身になったなら、小さい子どもたちに「大きくなったら僕はああなるんだ!」と思ってもらえるような姿を見せるべきだと思っているんです。
自分が小さい頃に思ったことを、次の世代にその感動を伝えていかないといけない。それがあこがれの職業に就いた人間が社会に対して恩返しするべきことなんじゃないかと思います。
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みんな大人になっていくじゃないですか。大人の会話をして大人の世界に入っていく。でも、それで日本はどうなったかなと思うんですよ。
もっとシンプルに、なんで鉄道会社に入ったか、なんで飛行機会社に入ったかと考えないと。大きくなったらこういう仕事に就きたかった。だったらそういう気持ちは、原点回帰じゃないけれども考えなきゃいけないと思います。

──外資系の会社で働かれている時から、そういう考えをお持ちだったんですか。

アメリカ経済の最先端で義理も人情もないと言われてたんですが、外国人の会社ってすごく素直なんですよ。それに子どもたちに夢を見せるとか、ワクチンを送りましょうとかいうのを全部、航空会社はやっていたんですよ。そういうのが普通だと思っているんです。だから私は今でも間違っていることは間違っているというし、みんなが望むことはやってあげたいと思っているんです。はっきり何でも言っちゃうから「またあんなこと言いやがって」と、思われることもしょっちゅうですがね(笑)。

──日本の企業、ましてや存続の危機のある会社に入るのに迷いはなかったですか。

前の会社の仕事に対しては迷っていました。その頃、40歳ちょっとで部長のポジションに就いていて、そこではその上がなくてチャレンジングなことがないって状況だったんですよ。そんな時に、たまたま「いすみ鉄道」の公募があって、やってみよう! と。
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──そのタイミングで「いすみ鉄道」に出会ったのは運命的なものを感じましたか。

私は運命論者じゃないからなぁ(笑)。だけど不思議だな、とは思います。本当はこの鉄道はなくなってたはずだし。ローカル線は“ダメな象徴”みたいに言われていたけど、それがお前やってみろと言われてやってみるとダメでもなんでもなかった。ただ誰もやってこなかっただけ。それを自分がやらせてもらっただけなんですよ。
国鉄型の古い車両を持ってくるとか誰も考えなかった。みんな捨てちゃってたから。もったいないでしょ。

──もったいないです!

そうでしょう。だからちょうだいって言ったら、くれたの(笑)。
そうしたら今や、わざわざ塗り替えたり、銀座線だって古っぽくしてみたりね。JRだってノスタルジックな寝台列車を導入しようとしたり。
だから需要を掘り起こしたんだなぁ、なるべくしてなったんだなぁ、とは思います。

夢を見せ続けないといけない
(後編につづく)⇒ 『夢を背負う人』(後編)

 

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